「本施設よりこの通信を聞く『人間達』に最後の命令を送る
抵抗し 義務を果たせ」
東京都健全育成条例改正案について、いろいろと考えてみるブログです
理系人間である私から見た「青少年健全育成条例改正案」ですが、不思議に思う事が何点もあります。
この条例改正案の問題点は、基本的に3点です。第一に判断基準が曖昧であること。第二に評価とフィードバックがなされないこと。第三に、そもそも条例修正の要因となっている部分が現実的なのかと言う点です。
第一の点については、もっとも判断基準が曖昧だった「非実在青少年」の文言が外された分だけ、6月の提出時よりも具体的になったのは事実です。ただし、「性行為及び性行為類似行為」を「不当に賛美」すると言う判断基準に曖昧さが残っています。多分、大島渚監督の愛のコリーダの裁判を引き合いに出すまでもなく、猥褻の判断そのものが曖昧なのと同様に、「不当に賛美する」と言う部分が曖昧なままに残ってしまいます。人によって判断が異なる部分ではあるでしょうが、この点が具体的に線引きできない以上、公的機関による表現の自由の制限と受け取られてもおかしくはありません。その他、小説は対象外とか、同人誌は対象外等と個別に意見が出されていたのもおかしな話です。見せてはいけない作品であれば、表現形式がどうであれ、すべて遮断しろって言うのがひとつの方法論です。それをやると、都知事の作品も売れなくなる訳ですが。版権持ってる会社は、叩き返してやればいいと思いますけど。
第二の点については、物理/化学の実験に例えると具体的に分かるんじゃないでしょうか。物理/化学の実験では、ある理論に基づいた実験を行なった後に、それを評価して、理論にフィードバックして、新たな理論を元に再実験と言う手法を、ごく当たり前の様に行ないます。ところが、この条例の場合には青少年がどう言う「健全な育成」に至ったのかと言う評価は問題にされていないどころか、考慮すらされていません。言わば、ゴールのないマラソンを走っている様な物です。結果として、単純に規制だけが厳しくなって行くと言う一方向の道しかない様に見えます。「条例だからそれでいい」と言う意見もあるかも知れませんが、ゴールがないと言う事は無限に走り続ける事を意味し、規制に際限がないのと同義です。また、判断を下す側にも問題があり、判断が一方にのみ偏ってしまわない様にしなければならないはずなのに、現状は規制側の人間だけで判断しています。この点についても改正案では明言されていません。
第三の条例修正の要因は、心身が健常な状態ではない子供に、不健全きわまりない作品を見せてはいけないと言う点だと思っています。「作品」としたのは、漫画に限らず、小説や映画、動画等を含めての話です。小説等を規制の対象から外し、漫画だけを規制すると言うのは、一方的に漫画と言う形式を蔑んでいるだけの事です。そのために、子供に見せない様にすると言うのは至極当たり前の事ですが、現状の販売店でのゾーニング等で回避できていると考える事もできます。そもそも、このゾーニングによる販売抑制によって、本当に青少年が見ない(見えない)状態になっているのか、誰かが系統立てて調べているのでしょうか?誰も調べていないのであれば、それを根拠にする事は意味がありませんし、逆に無意味だと断定する根拠としても弱い物になります。また、漫画の影響で誰かに性的ないたずらをすると言った考え方は、マスコミ等で流された根拠のない「ゲーム脳」とか「テレビ脳」等のデマゴーグを思い起こさせます。そもそも、ここ10年程の犯罪白書を調べれば、未成年を含めた強姦事件は減少傾向にあり、いま、規制を強化しなければならない理由にはなりません。
今度ばかりはダメなのかもしれませんが、何もしないで白旗を揚げるのも目覚めが悪いので、精一杯抗ってみようかと思います。